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日本レコード大賞の歴史をひもとく~信頼No.1の日本の歌謡曲大賞

日本レコード大賞とは、毎年12月にTBSテレビで放送される音楽の祭典です。日本の音楽界を代表する歌手や作品が表彰されるこの賞は、どのようにして誕生したのでしょうか。そして、その歩みは日本の音楽史とどのように関わってきたのでしょうか。今回は、日本レコード大賞の歴史をひもといてみたいと思います。

日本レコード大賞の創設

日本レコード大賞は、1959年に第1回が開催されました。この賞の創設者は、日本の音楽界の巨匠と呼ばれる古賀政男と服部良一です。彼らは、戦後の日本の音楽界において、米国から流入したジャズやロカビリーなどの新しい音楽と、戦前から続く歌謡曲との間に生じた世代間のギャップを埋めるために、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指しました。彼らが範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞でした。

しかし、古賀と服部の動きは、音楽界の主流派からの反発を受けました。レコード会社や作曲家協会は協力を拒否し、新聞社やテレビ局も消極的でした。古賀は、参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担しました。そうして、どうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」でした。この曲は、デビュー曲であった水原弘が歌い、放送作家の永六輔が作詞し、ジャズ奏者の中村八大が作曲したという、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせでした。この選出は、審査員の良識と勇気の表れであり、日本レコード大賞の独立性と公正性を示すものでした。

日本レコード大賞の黄金期

日本レコード大賞は、その後も新しい音楽ジャンルからの受賞が相次ぎ、日本の音楽界の多様化と発展に貢献しました。レコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消しました。また、日本レコード大賞自体も、放送時間や会場、司会者などを変更して、より多くの視聴者に親しまれる番組になりました。1969年からは、大晦日のNHK紅白歌合戦の前に放送されるようになり、カラーでの全国放送を開始しました。会場は帝国劇場に移し、総合司会には元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用しました。オーケストラと合唱団が演奏する華やかな音楽と、緊張感のある発表と受賞の模様が、視聴者の心をとらえました。

日本レコード大賞は、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えました。この時期に大賞を受賞した歌手や作品は、日本の音楽史に残る名曲となりました。例えば、1972年には「さよならの向う側」で森進一が、1974年には「愛の讃歌」で美空ひばりが、1975年には「勝手にしやがれ」で沢田研二が、1977年には「青春の影」でチューリップが、1978年には「ルビーの指環」で寺尾聰が、1980年には「北の宿から」で都はるみが、1981年には「北の旅人」で吉幾三が、1982年には「さらば恋人」で松田聖子が、1983年には「雨のリグレット」で中森明菜が、1984年には「卒業」で斉藤由貴が、1985年には「DESIRE -情熱-」で中森明菜が、1986年には「TOMORROW」で岩崎宏美が、1987年には「時の流れに身をまかせ」でテレサ・テンが、1988年には「夢を抱きしめて」で中山美穂が、1989年には「TSUNAMI」でサザンオールスターズが、それぞれ大賞を受賞しました¹。これらの歌手や作品は、日本の音楽ファンにとって忘れられない思い出となっています。

日本レコード大賞の現在

日本レコード大賞は、1990年代以降も、日本の音楽界の動向を反映しながら、優れた歌手や作品を選出し続けています。しかし、この時期には、レコード会社や事務所の力関係によって受賞者が決まっているとの指摘もありました。また、賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになりました。これにより、賞の権威は大きく低下しました。しかし、日本レコード大賞は、そのような状況にもめげずに、信頼できる審査委員による公正な審査を行っています。審査委員は、主に新聞社の音楽記者や音楽評論家、音楽プロデューサーなどで構成されており、音楽界の第一線で活躍する人々です。彼らは、作詞、作曲、編曲、歌唱、演奏、録音などの音楽的な要素だけではなく、日本の音楽界への貢献度をも考慮しながら、厳正な審査を進めています。

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